終戦記念日に思い出した、あの人のあの言葉
今日、朝、ふとしたことに気づきました。
私は今、本当に幸せなんだな~って。
それは、こんなことに気付いたから。
この楽楽妻ブログでよく書いてますが、私は歴史好き。
『更級日記』って古文の時間に習いませんでしたか?
平安時代の菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)って女性が書いたと言われる日記です。
そのころ、源氏物語やいろんな物語が貴族女性の間で回し読みなどされていたのですが、この人はかなりの物語好き。
続きが気になって気になってしかたない。
当時、作者が紙に筆で書いたものを、また筆で書きうつさねばなりませんし、それをどこかで簡単に買えるわけでもありません。
書き写して読んだ人が知り合いに貸してあげて、その人がまた書き写して知り合いに貸してあげる。
つてやコネがなければ手に入らないのです。
孝標女はそれでもまだ手に入れられるコネクションも経済力もあるほうだと私は思うのですが、それでもやっぱり人を介したり、書き写したりがあるのだから物理的にも時間がかかったりする。
それがもう、待ちきれないくらい物語命の人なんです。
神仏に願うのが、「物語の続き、早く読ませて下さい。」なのですから。
そんな孝標女が、言うのが下の一文なのですが、
『源氏を一の卷よりして、人も交らず、几帳のうちにうち臥して、ひき出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ。』
(源氏物語を手に入れて、部屋に一人こもりきって誰にも邪魔されずに、最初の巻から次々読み進めるこのよろこびは、お后さまになることなんかよりよほど嬉しい。)
ふとこの一文を思い出して、いやいや、私、この孝標女が后の位にひきくらべたことを、今できてるやん、と思ったのです。
この孝標女の気持ちが私はよーくわかります。
私も物語世界にどっぷり入りこむ方ですし、いやむしろ異世界に旅する時間がなければ現実世界を生きていけないかもしれない。
たくさんの本やコミックなどを生み出して下さる作家さんたちの才能を尊敬します。
そのおかげを享受して幸せです。
そして、現代に生きる私は、孝標女よりずいぶん楽に読みたい本やコミックを手に入れることができますから。
○マゾン、貸コミック屋さん、ありがとう。
そしてこんな喜びにふけっていられるのも、平和であればこそ。
命の危険があるときに物語の続きは願えません。
地球上のどこでもが平和ではない中で、今の日本に生まれ、食べるに困ることなく本のことを考えていられる。
こんな幸せなことがあるでしょうか。
感謝しかないではないか。
と、朝突然ひらめいた。というわけです。
え~、こういいながらも、私ってば、日々家族うちでは、あれも足りない、これもできていない。
もういやだ、こんなはずじゃない、いいかげんにして、ありえない、信じられない、どうなってるのetc・・・
ありとあらゆる毒的言葉を吐く未熟極まる人間でございます。
いつもいつも感謝だ、感謝だと言えてるわけでもありません。
それでも、今日の私のこの幸せ(ささやかですが)があるのはご先祖さまやあまたの先人たちが、わが子や孫の生きる世が、平和で、好きなところに行き、好きなものを食べ、好きなことをできる、そのような世になるようにと願い続けてくれたからではないだろうかと思うのです。
ありがたいなぁという気持ちが自然に湧いてくる瞬間があるのです。
きょうは8月15日。
太平洋戦争が終わった日、終戦記念日です。
終戦と言いたくない、敗戦記念日だという方もいらっしゃるそうです。
どれだけの方々がどれほどの苦しい悲しい思いをして、大切な命を失い、見送ったか。
それだからこそ、後のものの安寧を、幸せをどれだけ強く思ってくれたことだろうか。
そのように感じます。
ふと思い出した孝標女の「后の位も何にかはせん」という言葉。
今日という日に思い出したのは偶然とは思えません。
今の幸せにしっかり気づいてよ、という先人たちからのメッセージのように思います。
(私が、私の幸せに気づくために解りやすい事例につながる言葉を送ってくるのでしょう。)
今の幸せが続くとも限らない。
世界は、日本はどう動くかわかりませんが、願うこと、思うこと、嫌だと思うことを嫌だと言うこと、しないこと、間違いだったと思うことをしないこと、正すことは一人一人誰にでもできるでしょう。
後の世の人たちが、知ることの喜びを、知りたいと言える自由を、いつでもふんだんに与えられますように。
そんなことが許されるような、時間も空間も豊かでのどやかな世界でありますようにと、今日の日に、感謝とともに天にお願い申し上げます。
私も先人たちと同じように、今日、強く強く思うことにします。